毎日新聞の“日曜プライムくらぶ”に連載されている“炉辺(ろへん)の風(かぜ)おと 秘(ひ)そやかに進んでいくこと”(梨木果歩作)を読むのが最近楽しみの1つである。
2月9日の連載で、“ナイティンゲールの医療の信念”についての記述があった。ナイティンゲールというと、皆が思い浮かべるような、野戦病院を回る天使ではない、実に実践的な哲学の人であると、梨木氏は述べている。果たしてその“皆”の1人こそ私であったので、その記述はある意味ショッキングであった。
“ナイティンゲールの医療の信念”は、
日常(患者の身の周りの世話)と科学(当時最新の衛生学など)と霊性(ケアの現場に「神の国」を実現する)の三位一体である(“炉辺の風おと秘(ひ)そやかに進んでいくこと5”梨木果歩 2月9日の“日曜プライムくらぶ”より抜粋)。
1つ目の“日常”は今でいう介護であり、2つ目の“科学”は、現代医療のことになる。気になるのは3つ目の“霊性”の(ケアの現場に「神の国」を実現する)と言うところだが、「神の国」という表現はいささか今の時代では宗教的、哲学的色彩のイメージが強すぎてなんだかしっくりいかない。
しかしそれを“ケアの現場に「患者とその家族が望む希望を叶えるために、患者を支える周りの者たちとともに、より善なる折り合い」をつけること”ではどうだろうか。
患者が医療を受けるということは、単に病んでいる肉体だけを治療するということではないと思う。患部を治療する者だけでなく、患者を介護する医療や介護スタッフやその家族のすべてにとっての、いわゆる“都合”が関わってくる。皆がそれぞれ患者のことを思って行動しているにも関わらず、時には患者の思いや希望とは予期しない方向へ進んでいってしまうこともある。誰が悪いわけでもないにも関わらずにだ。ナイティンゲールが今の医療を見たら、何を考えるだろうか。
先日NHKで、「心の傷を癒すということ」という番組が放映された。阪神大震災後、いち早く避難所で被災者の心のケアを続けた精神科医 安克昌医師をモデルにしたヒューマンドラマであった。安医師はがんに侵され39歳という若さでこの世を去る。その番組の最後のシーンで、秋が深まった落葉の中を妻と子供たちと母親に押されながら車椅子で医師が散歩するところがあった。途中、彼の妻が目をきらきらと子供のように輝がやかせて落葉を拾い始めた。そんな妻の姿を見た安医師が、母親に「心のケアって何か分かった」と言う。「何や」と母親が尋ねると、「誰も独りぼっちにさせへんていうことや」と答える。
それを見た時に、ずっと心に引っかかっていたものが流れ落ちた。
「より善なる折り合い」をつける、というのは“患者を独りぼっちにさせない”、ということではないか。
むろんそれは患者を物理的に独りに置き去りにしないということだけではない。ともすれば患者抜きの家族の想いや医療側の思惑が先行して、それが患者の希望であるかのようにすり替えられてしまうことがある。
『からだをケア』するということは、“医療ケア”や“心のケア”を含めて、患者と患者を支える周りの者が互いに寄り添って生きていくものではないかと思う。