先日の日本人半世紀ぶりの快挙となったショパン国際コンクールに反田恭平氏と小林愛実さん2人が入賞という報道は今の抑圧された社会に明るい希望の光となったように思います。
同時に新型感染症による社会構造の変革が今回のコンクールで遅れを取っていたクラッシック界にオンライン化を導入させることになりました。その結果、世界で40万~50万のファンが今回のコンクールの配信に熱狂したのです。もちろんその本選の様子をYouTubeで見て、とても感動した1人になりました。
ショパンの協奏曲第一番を繊細で優雅で、一糸乱れることなく柔らかくすべらかな10本の指で奏でていく様子に気が付くと食い入るように見入っていました。それぞれの解釈で表現しようとされたショパンの世界観を一音と一音を丁寧に紡ぐことで生まれる音の重なりが、次第に重厚さを持ち、二次元から三次元へと幾重にも広がっていく。その音の調べを一つ一つ確認するかのように、あるいはそれに乗ってその世界観に向かっていくピアニストの表情がとても印象的でした。
音、あるいは音楽は目には見えるものではありません。耳で聞くものですが、音、あるいは音楽を通して確かに私達の心に響かせる力を持っています。それは感動であったり、勇気であったり、癒しであったり、励ましであったり、人によって音楽を通してもらう力はそれぞれです。
ふと、そういえば私達が今AST気功を通して扱っている“気”というものも同じようなものではないかなあと、思いました。
“気”は目に見えるものではありません。しかし、私達はそれを患者さんの症状にある箇所に送り、その“気”を使ってその箇所の汚れを取ったり、その箇所を強くしたり、動きを促したりして、症状をよい方向へ導いていくように働きかけます。
症状のある箇所をどの方向へ導いていきたいかという明確な意識でもって、“気”を使って施療を行ないます。その結果、患者さんの症状にどのような変化が出るかは症状の程度によってそれぞれです。もし変化が少なかったら、症状に対する気功をもう少し時間的に長くしたり、回数を増やして、あるいは、気を向ける方向を少し変化させて、その様子を見ます。それができるのは、気功師は常に“気”をどのように扱っているかという確かな実感があるからです。
私達AST気功師は、注射器や薬ではなくて、音楽ではなくて、“気”という手段で、患者さんの不快で辛い症状を健康で良好な方向へ導いていく表現者とも、言えます。