私の父は満91歳である。脳血管障害で倒れたのは今から約30年以上前である。つまり30年以上自宅で療養を強いられる毎日を過ごしてきたことになる。
表具師として一家5人の生活を支えていた父は、得意先も増え、老舗旅館などの掛け軸や屏風などを任されるまでになっていた。仕事も充実してきて、さあ、これからという矢先だった。結局病気の後遺症で左手足の麻痺が残り、表具職を引退した。そして長い長い自宅療法の生活が始まった。父は倒れてから一度も自分の病気について、あるいは自分の不自由な生活に対する恨みや愚痴を家族に漏らしたことはない。
当時私は理学療法士として、父の不自由な手足を少しでも取り戻そうと躍起になっていた。父もそうであった、と思う。父は元来器用であったので、たちまち右手だけでご飯の支度ができるまでになった。自分だけの知恵と工夫で、器用に右手一つでジャガイモの皮をむいたり、揚げ物をしたりした。布団の上げ下ろしも行った。片麻痺でこんなことができるものは僕だけや、とよく自慢げにいったものだ。専門的に見ても父の麻痺状態からして一人でここまでやり抜くのは見たことがなかった。残念ながら、再び表具職をできるレベルまでには戻らなかったが。その後私はAST気功に出会って理学療法士を辞めた。
しかし、父は30年以上続く療養生活の中で何もしてこなかったわけではない。父の思いを書き綴った断想的な文書をいくつもコツコツと書き綴ってきた。その一つに「万物」というものがある。そのタイトルの通り、この地上にある万物について、例えば、“太陽”や“雨“、あるいは”植物“や”動物“などについて自分の思考や自由な発想を述べている。
「万物」を書く動機は何だったのか、問うと、父は、病気になってから時間が有り余ってすることが何もなかったから、書き留めただけのことだ、と一笑した。
「はしがき」の末尾に、“なおまた私が今ここで独断と偏見を顧みずに理屈を弄するのは、老いてますます外界適応の強化を図って安心を得たい為である”、としたためている。
家族は社会構成の最小でありながらも最強のコンパートメントの一つである。その中心に居座り、外の世界に向かって発信し続けることが外界への繋がりを持つための父の手段となった。
父の書いた「万物」の一小節を見ると、
“己がおかれている環境の選択が困難な植物は、ひたすら縄張りに固執して現状の対応する忍耐力を養う。(略)己が置かれている環境を気ままに選択が可能な動物は、ひたすら制服に熱中して環境の選択に明け暮れる”、とある。
一見矛盾しているかのように見えるこの生物の体系は、本質的には同一であるのと論じている。
父は病気をすることで自由に動くからだを失った。その代わりに、自由に動くからだを持つゆえに制限されていた思考が解き放たれ、無限の自由を得ることになった。病気によって課せられた体の不自由さと束縛に反比例するかのように、父の思考はどんどん広がり、それが言葉に乗って羽ばたいている。
現在父の体調はおおむね良好である。満91歳になっても血圧も血糖値も問題はなく、薬は一切飲んでいない。左手足の麻痺があり、からだの動きは不自由である。姉の手助けを受けながら、三度の食事は自ら作って生活している。そしてリハビリでなくて、AST気功を早20年以上受け続けている。